医系大への羅針盤 医歯薬進学

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  • 2016.12.16
  • 研究者の出発点は「常識を疑うこと」にある
  • トイレでの出会いから始まった、不器用ながら幸福な研究者人生を語る

    東京医科歯科大学名誉教授
    藤田紘一郎(医学博士)

     

    寄生虫博士として著名であり、マスコミに登場することも多い藤田紘一郎先生。「サナダムシをお腹の中で飼っていた」というエピソードはあまりにも有名ですが、その型破りな研究者人生はどうやって生まれたのでしょうか。生い立ち、人生の転機となった恩師との出会い、山あり谷あり、そして笑いも涙もたっぷりの破天荒な人生を振り返っていただきました。

     

    「医療の道」しか知らなかった

    ――将来、医療に携わりたいという志を持つ若者たちに、藤田先生のご経験を道しるべとして話していただければと思います。まず、医学部を目指した原体験からお聞かせください。

     古い時代の話ですから参考になるかどうか…。軍医だった父の仕事の関係で、私は旧満州ハルビン市で生まれました。4歳まで軍の宿舎で過ごしましたが、ハルビンはとっても寒いところでね。冬に野外でオシッコすると、地面からすーっとツララが伸びたのを覚えています。戦争末期、軍上層部は敗戦を覚悟していたようで、父は家族を極秘ルートで日本へ帰そうとしました。母と私と弟、そして女中さんの4人で朝鮮半島から海路で九州に渡り、博多から列車で東京へ。過酷な旅で、水も食べ物もろくになく、途中で何度か発熱して生死の境をさまよいました。ようやっと東京にたどりついたものの、今度は空襲に焼け出され、焼け焦げた死体が浮かぶ荒川を越えて命拾いしました。結局、三重県の父の実家に疎開して終戦を迎えるのですが、子どもの頃に何度も死に直面したことが、その後の私の生き方を決めたような気がします。
     

    ――具体的にどういうことでしょうか?

     人間、誰でもいつかは死ぬのです。私は幸運にも生き延びたのだから、命が尽きるその日まで、自分にウソをつかないよう、やりたいことをやって生きようと。
     

    ――なるほど、そうした苛烈な体験が医療の道へ導いた、と。

     そう言えばかっこいいけれど、正直、私が医学部を志望したのは「それしか知らなかったから」です。戦後、父は三重県の山の中にある国立結核療養所の所長になり、家族は敷地内で暮らしていました。当時の結核は国民病で、大変恐ろしい感染病。その療養所で暮らす子どもたちは「近よるとバイ菌がうつる」と学校でいじめられましてね。遊び相手は同じ療養所の敷地内で暮らしている子どもたちと、ニワトリやヤギ、ウサギなどの家畜くらい。野山を駆けまわり、動物の世話をしながら小、中学校とまったく勉強せずに過ごし、高校1年の時に担任の先生から「進路はどうするんだ」と聞かれたときも、知っている大人は父のような医師か、療養所で働く医療関係者だけ。そこで「医者になるつもりです」というと、先生は唖然としました。勉強せず、成績は下から数えたほうが早い落ちこぼれだから無理もありません。「医学部に入るには勉強しなくては!」と、高校2年生から猛勉強を始めました。必死だったので、3年生の秋には模擬試験でもそれなりの成績になっていました。現役で東京大学を受験するものの、これは見事に玉砕。一浪した翌年、東大と東京医科歯科大学に合格し、東京医科歯科大学に入学します。
     

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